あなたのためのわたし
伝染病が蔓延しているので夏休みだというのに友達に会えない。
多くはないけれど大事にしている友人が幸運なことに何人かいて、中でも高校時代に同じクラスだった数人とは長期休みのたびになんやかやと会っている。彼らといることが私はとても好きだ。だから今、とても寂しい。
自粛期間中にツイッターで、
「友達と会えないつらさは、その友達といる自分と会えないつらさでもある。」
というような文言に出会って随分としっくりきた。
その人といる時だけ発生する自分、というのは確実にある。別に多重人格でも八方美人でもなく、なんというか
この人といる時の自分が好きだわ
とか
この人とだけしたい話があるわ
とか、そういうこと。
別に大それた話でなくてもよくて、本当に話したりしなくても良い。
クリーニング屋で流れていたカネコアヤノが洗濯物の匂いと混ざってすごく良かっただとか、
散歩のたび見かける無花果がどんどん大きくなっていて、今年は皮を炙ってサラダに入れようと思っている、だとか。
友情であれ恋慕であれ、会う頻度とは関係なくそういう人の存在がわたしを豊かにしているように思う。その人のためのわたし、あなたのためのわたし。
ほんのついさっきまで彼女と彼と二人 大泣きしてたんだって。いつも飄々としている友人のそんなシーンを想像したら人間臭さみたいなものを感じて泣けてきた。
Re:愛の形 - 交換雑記
swimmyの記事を読んでいて、失恋のつらさのひとつに
「その人のために拵えてきた自分を手放さなければならない。好きな人といた好きな自分ともう会えない」
というのがあるな、と思った。
自分の一部が欠けたような感覚、なんてよく言うけれど、ある意味で本当に欠けているのだ。
そんなことを考えていて思い出した、大好きな小説。
失恋に関しての連作短編集、というよりはふられ連作短編集。
バトンを渡すように主人公がふられ、ふった相手が次の話の主人公になりまた別の相手にふられていく。
この小説のミソは実は恋ではなく、自分の夢や自分の人生との向き合い方の百人百様さにあり、それがまた良い。
まあそれは置いておくとして、ひとつの話でふる側の人間と次の話でふられる側の人間は、同一人物であるはずなのに印象が全然違う。
誰かと共に生きるということ、殊更誰かと恋をするということは、その人のための自分を構築していくことでもある、と、この本を読むとつくづく思う。
私の話になるけれど、弟子入りを決めた頃、大切にしていた恋をひとつ葬った。
夢と恋との両立が不可能だと思ったからだ。
本当に尊敬していたひと。弟子入りを含めてこの道で生きていくための強い気持ちを持つことができたのは、その人と付き合って、釣り合いたくて、そういう自分になったからだ。
まさかその人のために作り上げた自分が、自分の夢のためにその人を手放すなんて思わず、泣いた。でもいつの間にかその人よりも、その人と出会って作り上げた自分を、その夢を、手放したくなくなってしまっていた。
細か過ぎて掴めずサラサラと零れ落ちる砂漠の砂のように、 あるいは、きちんとお椀の形を作れない子供の手を中を無情にすり抜ける水のように、 僕を通過していく女性たち。 そう、僕は何回も出会いと別れを繰り返した結果、通過されることが嫌になった。
愛の形 - 交換雑記
その人のそばにいることはできなくなってしまったけれど、あのとき作った、作ってもらった私は、今の私の一部になっている。
そこからまた大切な人と出会った今は、大事なものを二者択一にしないしたたかさも身につけた。
通り過ぎて行った人の数だけ作っていった「あなたのためのわたし」は、会えなくなってもちゃんと生きている。なにもかもなくなったりしない。