RE:天才を殺す凡人
おはるちゃんに本をおすすめした者としてまずは僕なりの本のレビューをしたいと思う。
天才を殺す凡人には3つのタイプが登場する。
天才:独創的、創造的。アート、企業、エンジニアリング、芸術関係を得意あるいは武器にする。
秀才:再現性、説明能力。サイエンス、組織、ルール、数学、編集、書面、法律を得意あるいは武器にする。
凡人:共感性。言葉、マーケティング、SNS、写真、文学、地域得意あるいは武器にする。
この本のストーリは凡人が天才を生かすために最強の実行者を味方につけ、天才を殺そうとする社内の秀才に立ち向かい、その過程で共感の神になる、といった感じだが、そのストーリーは1つ具体例であり、面白いがある種の贅肉だと思っている、つまり、食べるても美味しいけど骨はそこではない。
ストーリーだけを読むと、この本のメッセージが「凡人の勝ち筋は天才を見つけ、活かすことだけ。」ということに変容してしまうから。
またこの本は凡人の勝ち方を教える指南本ではなく、ましてや人間には3タイプあるという説明する本でもない(そもそも天才・秀才・凡人は一人一役ではなく、一人の中に必ず全員存在し割合が違うだけ)。
伝えやすく、話題になりやすいようにストーリメイキングしただけだ。
ではこの本の本質はどこにあるだろうか?
そもそも本のタイトル「天才を殺す凡人」の意味はなんだろうか。殺すとはなんぞ。
簡単にいえば天才は無数にいる凡人に多数決により否定されてしまう可能性について言及しているが、その多数決の正体とは、
「天才⇄凡人の間にある、コミュニケーションの断絶こそが天才を殺す要因」
とのこと。
ではなぜコミュニケーションが断絶されてしまうのか。
本はこう続く。
コミュニケーションの断絶は
「軸(その人の持つ価値観)と評価軸(軸に基づいて良いか悪いか)」の2つで起こりうる。天才は「創造性」という軸で物事を評価する。対して秀才は「再現性」で、凡人は「共感性」で評価する」
つまり、階層が断絶の理由は評価軸の違いであるためだという。
ではなぜ評価軸が違うのか。
その答えまでは本書に載っていない。
しかし僕が思うに、それはその人個人の価値観=重要だと信じるものを土俵にして喋ろうとしているからだ。
なんということだ、各々がそれぞれがの価値観で相手にマウントをとる、意思疎通が出来るはずがない。
でもそれが人間なのだ。
そしてそのズレが僕たちを断絶させる。
ゆえに僕たちが必要なのは「理解させたい相手の言葉で喋る」ことが重要になってくる。
つまるところそれは「相手の価値観を理解する」ことと同義になってくる。
それが本書で言う、最強の実行者でありスーパーエリートであり共感の神なのだ。
相手の言葉を自分の言葉に翻訳するのは確かにこの本で言う「言葉を武器とする凡人」の得意とすることだろう。
以上が僕なりの解説でした。
僕はYさんとこの本について話をした時、僕は明らかに秀才カテゴリーに属する人間だという結論に到達した。
つまり、合理的ではあるが他者への共感性が乏しい。
(残念ながら)自分でもそのように思う。
ゆえに僕は共感性が必要になることは手を出さず、再現性を活かせることに注力しようと決めた。得意分野で戦う方がはるかに合理的だからだ。
何をしたか、じゃなく、何をしないか。
そう、僕はしないことを選べた。
30年少し生きた末にようやく「しないこと」を選べた。
ある種の諦めと達観を得たことにより、僕は随分と生きやすくなった。
多分、これで良いのだ。
(蛇足だが、僕は他者への共感を止めたわけではなく、共感を武器に戦うコンテンツを自分のフィールドにしないと決めた)