輪郭と余白(Re:×2)
だんだん記事が増えてきたから、パッと見たときに誰が書いたのかわかるといいのかもしれない、と思ったけど、
読み進めているうちに「む、これはもしや?」
ってなるのはおもしろい。初めて書いてくれる人ならなおさら。にゅーとらるなヨメちゃん、待ってました。
swimmyが編集のサイドバーにカテゴリを設定してくれたので、書くときにちょこっと設定しとくと後で見返すときおもしろいのかもしれない。
二つの記事を読んでいて、輪郭と、余白のことを思いました。
マッマからの話で好きなのがあって 「コップを横から見るとアウトラインは長方形か台形。しかし上から見ると円形になる。いろんな方向から見てみて。」
にゅーとらる - 往復交換雑記
美大に入りたかった私は、地元の美術の予備校に高校生から通ってデッサンをやっていた。
その時にやっぱり同じことを言われた。
色んな方向から見ろ、全体の形をつかめ、目に見えない部分の形を理解しろ、と。
美大入試のためのデッサンは基本的に芸術ではなくて、方法論と最適解を求めるための訓練なので、最終的には正しい構図で入れることがゴールなんだけど、訓練のために石膏像を真上から描いたこともあった。(くるくる頭の石膏像はただのカリフラワーと化した)
入試を見据えて行く過程では、絵として版の決まった紙の中に、モチーフを美しく安定して収めることを要求される。
そのとき言われたことが、ずっと残り続けている。
「モノだけじゃなくて、モノが作る余白の形を意識するといいよ。」
デッサンで形をとるため、あるいは構図を決めるためのいわゆる方法論なんだけど、この論は結構、応用が効くのだ。
美しいモノが作り出す余白の形は美しいことであるとか、何かを配置していくときに見るべきは余白で、揃っていないと(揃っているように見えないと)安定しない気持ちになることだとか。
何でも人生に応用するのは陳腐極まりないけれど、目の前にいる人の輪郭を確かめたいときにも、案外この方法は有効だ。
何をしたか、じゃなく、何をしないか。
そこにはその人の哲学や美意識、あるいは触られたくない柔らかいままのものが、無意識かつ無防備に隠れていたりする。
母は、もう行く必要がないのよって少し寂しそうにそして少しスッキリとした顔で答えた。
育て親のおばあちゃん - 往復交換雑記
ディーさんのお母さんが、しなかったことを思うと、知らないところで一人で戦っていた女の人の輪郭が浮かび上がる。余白から見えるその輪郭を、美しいと思う。
余談だけれど私は父親を亡くしていて、彼が親としてくれたたくさんのことをとても尊く思うのに、人として彼がどんな人間だったかを考えると、それは途端にぼんやりとしてしまう。
見える位置で、でも少し離れて、私なりに形を確かめたかったと、未だ時折残念に思う。
その人がどんな人か?なんて本当にわからないものだ。家族だって一番近くの他人だ。
アウトラインなんて実際には存在しないけれど、便宜的になくちゃ絵にならないからそうしてるだけだ。
ただひとつここで言えるのは、にゅーとらるはひらがなで書くと確かにかわいい。