歯医者とクリーチャー
「歯医者が好きなんですよね」
と言うと大体
こいつ正気か?という顔をされるか、実際引かれる。それくらい、歯医者というのは人にとって畏怖の対象で、できたら行きたくない場所らしい。
私にとってもそれはずっとそうで、2.3年前までは恐怖でしかなかった。
とはいえそれは一般的なそれではなく、単に未知のものへの恐怖だ。大して神経質にならずとも虫歯のできにくい体質で、6歳の頃あまりにも丈夫すぎる乳歯を抜いてもらいに行って以来、行ったことがなかった。
みんながあんなに嫌がるんだからさぞ痛くて怖くて不快に違いない。よかった、自分は用がなくて。そんな感じ。
ところが2.3年前あたりにガムを噛んでたら突如歯が欠けて、慌てて駆け込んで以来、ちょっとした非日常を楽しみにいく場所になっている。
あそこはクリーチャーになりにいく場所だ。
子どもの頃、父に言われたことで
「目は2つ、耳も2つ、口は1つしかないんだから、数に従って使いなさいよ」
というものがある。要は自分が話すことよりも見たり聞いたりすることを大事にしなさいよということだが、父自身、というよりうちの一族全員しゃべるのが大好きなので、どうせどこからか聞いた受け売りだろう。
とはいえこれはある意味私にとって真実だ。口は災いの元、なんていうけど、きちんと役に立ってくれたことが相対的にあまりに少ない。
脊髄と結びついて動くんじゃないよ。出した言葉は戻せないんだぞ。しかも大きいんだよ声が。
脳内会議で責めを追い、いつも迫害されなるべく小さくいるよう命じられている口が、ここでは主役だ。自由を奪われなす術なく、まるで工事現場のように扱われる。こんなに口内に集中し、されることがあるだろうか。かけられてきた手間を詳かにされることがあるだろうか。
意外と座り心地のいいあの椅子に倒れされるがままになりながら、私は自分が口以外が退化したクリーチャーになった気分になる。処置されている数十分の間だけの化け物。しかし害はない。口だけのクリーチャーは無力で他人に害をなさず、手をかけ綺麗にされて人間に戻る。
戻って歯科衛生士のお姉さんに聞かれる。
「染みたり、変な感じするところはありませんか?」
聞かれても、正直わからない。あまりに健康すぎて意識を払ってこなかったから、状態をうまく言葉に変換できない。その上こっちは人間に戻ったばかりなのだ。答えに窮した私は言う。
「く、口との付き合いが浅くて、よくわからないです。」
マスクで半分隠れたお姉さんの顔が、明らかに戸惑ったのがわかる。
クリーチャーくらいがちょうどいいのかもしれない。