交換雑記

交雑してます。6人くらいでやっています。

愛の形

「お手てをね、こうやってお椀みたいにまーるくして水を貯めるんだよ、やってごらん」

僕は3歳になる子供に顔の洗い方を教える。

顔を洗う、そのために手の中に水を貯める。

そんな単純な行為すら子供には難しい。

悪戦苦闘しなかなか出来ない、ポンと突き出たお腹に水がかかりびしゃびしゃになる。

我慢強く、実演し、そして手を取り一緒にやって見る。

そうしたことを毎日繰り返し、少しずつ出来るようになっていく。

その行為をとても愛しく思う。

 

 

結婚した人あるあるだけど、なぜ結婚したのかを聞かれたことがある。

Swimmyなんかは狂ったアンケートマシンと化していたらしい。

shascome.hatenablog.com

 

さて僕はなぜ結婚したのか。

僕をよく知る人ほど、このことに疑問に感じるようだ(なぜだかは全くわからない。)

つまり、僕は友人らに「結婚願望がなさそう」と思われていたということだ。

この結婚願望と結婚は切っても切り離せない関係ではあるが、結婚願望はある種の「目的を設定する」ものであり、結婚は「結果、あるいはその過程」であると区別出来るように思う。

そして今回は「結婚願望」に焦点を当てたいと思う。

 

 

僕は漠然と「通り過ぎていく人たち」という存在を感じていた。

よくわからないこの感覚を、よくわからない例で例えてみる。

 

ここにずーっと同じ学校に勤めている先生がいるとする。

その先生は憎まれてもなく、かといって格別に愛されてもなく、生徒が卒業して少し経てば忘れ去られるような先生だ。

この先生はある時、ふと思う。

今まで何百人と学生を見てきた、みんな入学し、学校という箱の中で一緒に過ごし、そして卒業した。

でも自分は何も変わらず、学校に居続ける。

ただ名前の違う生徒が入ってきて、そして出て行くだけだ。ここは通過するだけの場所なのだ。

 

 

 

細か過ぎて掴めずサラサラと零れ落ちる砂漠の砂のように、

あるいは、きちんとお椀の形を作れない子供の手を中を無情にすり抜ける水のように、

僕を通過していく女性たち。

そう、僕は何回も出会いと別れを繰り返した結果、通過されることが嫌になった。

(もちろんこれは見方によっては僕が彼女たちを通過したとも言えるが、あくまでも僕の感覚の話なので許してほしい。)

 

僕は流れる水を堰きとめたかった。

そういう意味で”家族”という形(社会的システム)はとても良いように思えた。

僕の結婚願望というのはそうして芽生えた。 

 

歪んだ価値観と思われるかもしれない、それは否定しない。

僕は単純に形のあるものが欲しかっただけ、ただそれだけなんだ。