わかりあえない僕らのための違国日記
”日記は”
”今書きたいことを書けばいい”
”書きたくないことは書かなくていい”
”ほんとうのことを書く必要もない”
誰に指し示したわけでもないが、このブログを始めるにあたっての私なりのステートメントである。
私なりの、と言っても元ネタが存在する。
それが今回紹介する漫画、違国日記である。めちゃくちゃネタバレをしていく所存
。そして長いです。
追い追い説明はするとして、これ読んでおけば話の大筋がわかる。
↓第2話試し読み↓
両親を交通事故で亡くした素直な少女、朝と、
人見知りで大人らしくない大人である、朝の姉の妹(叔母)槙生の同居譚である。
見てられなかった勢いで引き取ってしまうも、そもそも人と過ごすことが得意ではなく、やや発達障害傾向(ADHDというかADD?)のある槙生と朝のつながりを中心に、その他の登場人物、
朝の母であり槙生の姉である、実里
槙生の元恋人である笠町、
槙生の友人、
朝の友人のえみり、
などとのやり取りを通じて物語は進んでいく。
進んでいくと言っても劇的な事件は最初にしか起こらず、あとは比較的淡々と日常で起こりうることが連なっていく。ちょっとした仕草や言い回し、挿入されるエピソードがとても丁寧で、それぞれの登場人物がどんな人物なのかがすっと入ってくることが、この漫画の魅力だ。
この作品で何が描かれているか、というと大きく言って
1、わかりあえない者同士が一緒にいることの機微
2、人間の多面性
かなあと思っている。
1、わかりあえない者同士が一緒にいることの機微、の中で、一応のゴールの形として描かれていること。それは、
お互いを別の人間として認めながら受容することである。
なんというか優しい諦めみたいなものだ。槙生の友人の台詞で象徴的なのがあって、
”槙生だけディズニー来なかったもんね”
(中略)
”槙生も来ればよかったのにねーってあの時は言ってたけどさぁ
君がいちいち私らにつき合ってたら
今こうやって遊ぶ仲になってなかったねえ
たぶん”
ね、これですよ。優しい諦め。こういう台詞がなんでもなさそうにゴロゴロ出てくるこの漫画。
ビーガンのひとはビーガンのままでいいと思うし、信じる神様は人それぞれ違ってもいい。 スタンスが違う人が一緒にいちゃいけないわけじゃないもんね。
ミドリムシになりたい - 交換雑記
ヨメちゃんの言う、この境地です。
いろんな関係がこの物語の中では描かれているけれど、わかりあえない者同士の関係性の一応のゴールにいるのが、槙生と槙生の友人たち、そして槙生と槙生の元恋人、笠町である。
ゴールがあるということはスタートがあり、またスタート以前があり、分岐があり、脱落がある。その様々な地点の人間模様が淡々、かつ丁寧に描かれているのがこの物語の魅力だ。
スタート地点には槙生と朝がいる。彼女たちはより良いゴールに向けて対話を重ねながら生活していく。
スタート以前には朝と朝の母親(槙生の姉)がいる。彼女たちは親子という関係、そして朝が子どもであるがゆえに未分化のまま、お別れをする。違う者同士、としての地平に立てないまま。
分岐には朝と朝の友人のえみりがいる。彼女たちは未分化であったがゆえにお互いに違いがあることなどあまり気に留めず、親友として日々を過ごす。ここでも変化は訪れる、否応なしに。
脱落した関係の中に槙生と槙生の姉(朝の母)がいる。
別の人間であるお互いを受け入れることができなかった彼女らは決別し、死によって永遠に分かたれる。
どの地点にある関係性であれ、脱落しない限りは対話し受容していくことが大切である。
しかし、目の前にいる相手が自分とは全く違う人間だ、ということを自然に理解し受容していける人間もいれば、なかなか難しい人間もいる。
なかなか難しい人間の代表として槙生の姉が存在するが、ボーダーラインにいる人間の機微が特に最新刊である5巻では描かれていて面白かった。
槙生の元恋人 笠町氏と、朝の親友 えみりである。
両親の影響から自分の考える完璧を相手に押し付けがちな、少し傲慢なところのあった笠町。
彼はエリートとして社会のヒエラルキーの上の方を自覚的に歩むも、その傲慢さが一因となり槙生と別れたり、仕事もうまくいかなくなったりし、ついにはうつになり休職をする。物語冒頭の頃の彼はこの山を乗り越えた後なわけだが、槙生に丸くなった、と言われ関係を新しく築いていくことになる。
えみりは少し槙生の姉と似たところがある。他者を基準にものを考えがちで、常識で計れないものを「変」としてしまう。これは幼さゆえでもあり、朝にも似たところはある。
しかし彼女は思春期になり自分の中の嗜好のマイノリティ性に気づき、矢印が自分に向くことで戸惑う。それゆえなのか彼女は朝よりも少し大人びて、人の心がわかる繊細さを持っている。
自分にとって決して望ましくはないことがエポックになり、他者との関係性を見つめ直していく。誰にでも起こりうるその劇的さを、劇的でなく描いているのが趣深い。
次にこの作品で描かれる
2、人間の多面性についてである。
多面性というのか長所短所の表裏一体性というのか。
簡単に言えば
槙生は 公平さ⇄冷たさ
朝は 素直さ⇄短慮さ
槙生の姉、朝の母は 優等生、気配り⇄自主性のなさ
のような面がある。
わたしは見る人が見ればニュートラルだろうし 見る人が見れば激情家で(実際よくぷんすかしている) しかしそれも1個の事象を別々の視点から「わたし」を認識しているだけで 否定も肯定もする必要がないのかもしれない
にゅーとらる - 交換雑記
つまりこういうことだ。どちらだってその人本人であり、見え方が違うだけ。
最新刊5巻では朝の母であり槙生の姉、故人である実里にスポットが当たる。
彼女は1巻から4巻に至るまで、その抑圧的な部分がクローズアップされて描かれるが、5巻ではそんな彼女ゆえの苦しみも描かれる。(それによって浮き彫りになる槙生の辛辣さも必見だ。)
基準を人に委ね、その通りを平均以上で通過して、常にマジョリティであり続けてきた自分が、マイノリティになっていく、その心細さ、焦り、居た堪れなさ。
彼女はそれを、子供を産み愛すること、模範的な母親であることをもって解消していこうとする。そしてその意識を保ち続けるためのある種の装置として、20歳になった朝に向け、書いたことのない日記をつける。
5巻ではその日記の存在をめぐる朝の苦悩が大きな見どころでもある。
先ほども書いたように、朝は未分化な子供であるがゆえに、母親を人間として認識せずに生きてきた。しかし母親が死に、槙生という大人らしくない大人と出会い、対話を重ねることによって、母もまた人間であったことに徐々に気づいていく。
たくさんの思い出があるのに、 「じーじがどんな人だったのか」と考えると急に輪郭がぼやけだした。
Re:輪郭と余白 ~あなたは何て呼ぶ?~ - 交換雑記
こういう思いを、15歳ながらにしていくのだ。自分の母親に対して。
そうして一つの恐ろしい疑問に朝はぶちあたる。
「自分は本当に母に愛されていたのだろうか」という疑問だ。
もちろんそんなことは、残された日記を読んだって本当のところはわからない。そのことに気づき朝は絶望し、憤る。
「本当に朝は愛されていたのか」
という問いに対し、少し恐ろしい返答も用意されている。
マイノリティの居た堪れなさを模範的母であることで解消しようとした実里は、回想の中のママ友との会話で、子どもを産むことで得られた世界=自分の欲しい世界であったという話に同意を示す。
これは実際少し恐ろしい話だ。これがいきすぎてしまうと子どもが人格を伴わない存在になり、いわゆる毒親が完成してしまう。
僕は流れる水を堰きとめたかった。 そういう意味で”家族”という形(社会的システム)はとても良いように思えた。 僕の結婚願望というのはそうして芽生えた。 歪んだ価値観と思われるかもしれない、それは否定しない。 僕は単純に形のあるものが欲しかっただけ、ただそれだけなんだ。
愛の形 - 交換雑記
ディーさんの話ともちょっと通ずる部分があり、だからこそきっと自分で「歪んだ価値観」という言葉を使っているのかなと思う。(違ったらごめん)
しかし、これに対してもきちんと救いは用意されている。
救いとは朝そのものだ。
素直に、愛されることにてらいなく育てられた朝の姿そのものが、愛されて育った証ではないか、もしそうなら姉も幸福だったのではないか、と槙生は言う。
しかし亡くなった人は弁明できない、だからあくまで憶測として。
その公正さ、フェアネスは朝の心を慰めない。ここでは槙生の多面性が描かれることになる。
その後のシーンが、とにかくよい。
どの関係性、どの場面においてもとにかく”別の人間である”ということが引くほど丁寧に描かれ、それがシーンによって孤独であったりあるいは救いであったりを連れてくる。
その多様さ、多彩さに、思わず自分の身の回りの人間関係を照らし合わせてみてしまい、一緒になって救われたり胸が詰まったりする。
そして、描かれている内容がヘビーでも向けられた視線は優しくユーモアを持って描かれるので、読んでいてもさほど辛い気持ちにはならない。
ただあまりに近しく感じすぎて、飲み込むのに時間がかかる話ではある。自分の身に起こったことを整理するのに時間がかかるみたいに。
私にとっての共感は、痛かったり刺さったり苦かったりするもので、面白いとは違うのだ
Re:自分を科学する - 交換雑記
自分の中の面白いを、共感とは別のところに定義した私だったけれど、この作品は別。
そしてそれは私だけではないはずと思う。
ブログメンバー各位、あるいはここまで読んでくださった皆様におかれましては是非ご拝読を。