Re:自分を科学する
こういうのを見るともれなく自分に置き換えて考えてみたくなる。
あのね、面白いです。人のやつも知りたくなるね。
記事読んでて最初
共感:「あーわかる!」という気持ち=自分と同質であると感じる面白さ
差別:自虐など=自分と比べて異質であることに感じる面白さ
笑える:「funny」のような声を出して笑える動的な面白さ
趣がある:「intresting」のような声を出さない静的な面白さ
自分を科学する - 往復交換雑記
ここまで読んだ時は自分は「共感/趣がある」を好む人間だろうと見当をつけた。
ちなみに私もほぼ全くテレビを見ないのだが、最近面白いと思ったものを思い出すと、
・このブログでのやり取り
・チェンソーマン(漫画)
・違国日記(これも漫画)
・悪童日記(小説)
・ぼくとアールと彼女のさよなら(映画)
・天才を殺す凡人(ビジネス書)
とまあ物語率高めである。なんで自分に物語が必要かって、何かをわかりたいからだ。
物語の中で私は私の枠を超え、様々な状況や感情に没頭し共鳴する。
わかる、と思うことは同時にわかられることでもあり、多分それが必要なのだ。
「本を読まないということは、その人が孤独ではないという証拠である」
って太宰治も言ってたし。
このブログだって友人たちの普段話してるだけではわからない一面を見られるのが、私にとっての面白さの一部だ。
だがしかし、分類してみるとこうなった。
ディーさんと被ってる話はひとまず置いといて、分類すると結構な「差別/趣がある」寄り。
そもそも面白いってなんなん!とゲシュタルト崩壊を起こし、掘り下げて考えていくうちに自分なりの答えに辿り着いた。
①面白い、に理解は不可欠(まるで理解できないものを面白いと思うのは難しい)
②理解と共感は別物
そう私は「共感する/される」を面白いとしていたわけではなく、「理解する/される」を面白がってなおかつ常に求めてきたのだ。
自分から遠いもの、知らないもの(比較、未知)を理解できることは、それが人であれ、ことやものであれ面白い。
なんなら離れていればいるほど快感が増す。全く共感できない、したくもないものを、それでも理解できてしまった時、己の新しい一面に気づく。たまらない。
そしてこの理解をつなぐ架け橋になるのが言語なのだ。自分とは遠いところにあるものを理解できるよう言語化されたものに出会った時、細胞が生き返ったかのような心地になる。だから物語が好きなのだ。
少し話がそれるが、私自身の傾向として、状況やそこにおける人の気持ちを察する能力に欠ける部分がある。不文律をあまり理解できない。要するに共感性が低く、気が利かず、視野が狭い。
そんな私が思わず深く共感してしまったのが、穂村弘の『蚊がいる』というエッセイ(表紙が横尾忠則だった確か)の中のひとつ、『パッチワーク紳士』である。
要約すると、例えばドアを開けてあげるとか人に親切にする行いをすることが多く、人に褒められたりするけれど、それは「こうすると感謝されるんだな」と他の紳士の行動を見てパターン学習的に持ってきたものであって、「荷物が重そうだから助けてあげなきゃ」とか、人の気持ちに寄り添ってるわけじゃないんだよね、的な話をほむら節で書かれているエッセイだ。(手元にない上に読んだの何年も前だから、かなりもんやり要約。)
これはかなり共感しながら読んだけど、苦いばかりで特段面白いとは感じなかった。
私にとっての共感は、痛かったり刺さったり苦かったりするもので、面白いとは違うのだ。
自分のことを理解するといことはとても大事だと常々考えている。 自分は何が好きで、何が嫌いで、何に喜び、何を嫌悪するのか。 ただ残念ながらあらゆる物事は漠然としていて、あやふやで実態があるのかないのかわからない。 その実態のないクラゲみたいなものだって、僕たち人間は組成をバラバラに分解して、一つ一つ分類分けし、体系的に整理することで理解しようと努めてきた。 それは物事を理解するための重要なプロセスだし、さらに言えば己を探求する自分探しに通じるものがある。
自分を科学する - 往復交換雑記
本当にその通りだったよディーさん。
で、これを考えてみて、なんでディーさんに勧められるものが軒並み面白いかもよくわかった気がした。
生きてきたコミュニティの質も考え方も何もかも、あまりかぶるところがないのに、話が弾むのもなるほどと思いました。
また面白いことあったら教えてね。話そう。